川上温泉のあゆみ
トレビアの川上温泉
十六代目 阿部俊英 著
始まり
当館始祖阿部薩摩が、1615年(慶長20年・元和元年)上杉家臣直江兼続の命令で、 「土湯」に臨済宗妙心寺派第114世九山宗用をお連れしたことに始まります。 その後「土湯」は臨済宗妙心寺派へ改宗します。 阿部薩摩は、 李平、大谷地(笹谷)、土湯の3か所を切り開いたと伝えられております。 阿部薩摩について、亡き祖父(阿部大輔)が言っていたのは、 「江戸初期に高野山へ行った記録があるんだから阿部薩摩は諜報活動していた忍者」です。 当館は、今の中乃湯の湯守をし、その隣で旅籠を営んでおりました。
当館始祖 阿部薩摩の墓
当館始祖 阿部薩摩の墓(土湯温泉地内)
温泉
伊達政宗が病床の折、 「土湯」と「秋保」の温泉を運んだそうです。 直江兼続と犬猿の仲と言われてる伊達政宗に温泉を運んだ…九山禅師の指示だったかもしれません。
「土湯」は度重なる災害(火事・大水・山津波等)のためお寺の過去帳がありません。 江戸時代から旅籠として続けているのは当館だけとなりました。 福島市で当館よりも古い旅籠は、高湯温泉の安達屋さんです。
今から100年前の大正時代。旅籠の中にお風呂がある「内湯」旅館が流行しました。 これは、電気が開通したこととポンプが発明されたからです。 それまでは、旅館の中に湯舟はなく共同浴場を囲むように旅籠があり、 共同浴場に貰い湯・通い湯するのがそれまでの温泉場でした。 古い温泉地に共同浴場があるのはそのためです。 土湯温泉にも中之湯という共同浴場がありますが、 ちなみにむか~しの中之湯は、土湯温泉内の下ノ町にある旅館と地下道で結ばれてました。
昭和33年頃の川上温泉
昭和33年頃の川上温泉
転機
当館の浴槽は、万人風呂が総湯量30トン、半天岩窟風呂が総湯量25トンと深く大きいのですが、 循環ろ過をせず源泉かけ流し(加水有)の温泉です。 日帰り入浴のお客様が入ることにより、浴槽内の温泉が上下混ざり合い丁度良くなります。 むか~し飯坂温泉には「千人風呂」があり当館と比べられてました。 多分千人風呂の方が大きかったと思われます。
2011年、東日本大震災の際、断水等で共同浴場も民間浴場も閉鎖になり、 川上温泉ではお風呂に入れない多くの方々を受け入れました。 客室数の3倍の数の駐車が可能ほど大きい駐車場を持ち、 前述のようにお風呂の浴槽が大きく、温泉量が多い川上温泉だから出来たのです。 東日本大震災での自身の被災経験や被災者の方々を入浴支援などで助けることが出来たことを思う時、 代々受け継ぐ事が出来た温泉の有難味を感じると共に、これからもこの温泉を大事にしていかなければならないと思わせる出来事であったと感じています。
万人風呂
最近
令和2年の台風19号で源泉が水没、飲料水も山津波でパイプが寸断されました。 しかし幸運な事に、 源泉の隣にある昔の露天風呂浴槽にあった飲料水パイプの脇に偶然新品のパイプがあり、 それを使って修理することで3日間休館しただけで済みました。 翌年の令和3年に起きた福島県沖地震では、半天岩窟風呂の洞窟内の櫓が壊れ、 万人風呂浴槽にも亀裂が入り、休館日を利用しながら改修工事をしました。 翌々年の令和4年に起きた福島県沖地震でも壁等にヒビが入り別館の建物も被害が出ました。 さすがに3年連続で被災は心が折れました。 しかし、400余年絶やさず続けてきた生業を絶やすわけにはいかないのです。 これも皆様方のご協力と御配慮があってのことです。
これからも川上温泉を宜しくお願い申し上げます。
昭和32年頃の川上温泉
昭和32年頃の川上温泉